精密検査で前立腺がんが判明、当てにならなかった腫瘍マーカー数値!

 少し前の話になりますが、退院後初の診察で日大板橋病院へ行ってきました。以前ブログにN大学医学部付属 I 病院と書きましたが、イニシャルを使う理由はさらさらなかったですね。
 この病院で多少複雑な前立腺肥大・尿道狭窄を手術したのです。終わってみると、手術前にはわからなかったことがいろいろ明らかになるのは興味深いことです。
 手術を前に、改めていろんな検査を行いました。前もって知らされていたから不満はないのですが、HIVや梅毒も検査されたのには少々驚きましたね。もちろん陰性でしたが。

 ところが手術が終わると、もうひとつ意外なことがわかりました。検査時の私の腫瘍マーカーPSA値は低かったのです。検査結果の数値で、半数が前立腺がんと診断されるのが10ng/d以上。グレーゾーンが10~4。そして4未満が安全圏ということらしい。私は2.4でしたので医師も問題にしなかったし、私もまったく気にも止めていませんでした。
 ところが手術のあと、削り取った前立腺組織を精密検査したところ、がん細胞があったという。しかも決して初期ではなく、けっこう進行しているらしい。

 がん進行の経過観察をする段階を「1」とし、早急に方法を講じなければいけない段階を「3」とすると、私の場合はその中間で「2」だという。しかし急いで対処しようという気にはならないのです。
 前立腺肥大の手術は必要だったと思います。放置すれば尿閉を起こす危険もあったというから、やむを得ないでしょうね。しかしその後は、経過に従って苦痛をやわらげることを目的に行う、いわゆる「緩和ケア」を考えればいいのではないでしょうか。ことさらがんの治療をしたいとは思わない。しかし堪えがたい痛みを抱えつつ命を終えるのは嫌ですから、苦痛は少しでも和らげたいということです。

 その何日か後、ふだん服用している降圧剤等をもらいにホームドクターを訪ねました。ここで川越の泌尿器科クリニックを紹介され、そこから日大板橋病院送り(?)となったので、とりあえず結果の報告をしました。医師は「村岡さんは元気だから、あと10年は大丈夫だよ」と励まし(そのつもりでしょうね?)の言葉を述べていました。
 「私はもう十分生きましたよ。先生はまだまだ生きたいですか」
 「十分生きたね」
 このドクターは私と同年齢なのです。

 今後の事態の変遷で一言ではいえませんが、いずれにしてもがんの進行が速いか、天寿を終えるのが早いか。おそらくそんなところではないでしょうか。ただ私より数歳若いご婦人で、胃がんを手術して、現在はお酒やカラオケを楽しみ、生活をエンジョイしている方がいらっしゃる。その様子を見ると、必要な医療処置をするのもいいかな、と少しは心が揺れ動きます。
 ひとつだけ気がかりは、脳出血の後遺症で退院後3回も救急搬送された女房の存在です。彼女が元気な時ならいいのですが、この状態で、1人遺すには忍びないという思いも心にはあります。

 それと、私のがんがいつから始まったかわかりませんが、過去に迷惑をかけた人がいないか気になった。私はかつてC型肝炎ウイルスのキャリアでした。それを知ったとき、かかりつけ医に話して女房、子供の感染も調べてもらいました。もちろん全員陰性で2、3年前には私もウイルスの除去をすませることができた。
 そんなことを思い出しながら、あるドクターに聞いてみました。

 「前立腺がんは人に感染しませんか」
 「女性には前立腺がないから絶対にうつることはない。しかもがんは個人の細胞が突然変異するものだから、ウイルスのように感染するものではない。C型肝炎ウイルスに感染すると長年のうちに肝硬変→肝がんに進行するといわれているが、これもがんがうつるわけではないのです。輸血などでC型肝炎ウイルスに感染し、それによって徐々に肝硬変からがん化していくと考えられるということです」

 納得がいきました。知らずとはいえ、人に迷惑をかけていたら申し訳ないですからね。私のC型肝炎ウイルスも、原因は小学生当時の集団予防接種ぐらいしか思い当たりません。治療を開始するまで、すでに60年以上経過し、最近除去するまで放置していました。しかしこれまで肝硬変も肝がんも関係なく、毎日うまい酒を飲んできました。確か25~30年ぐらい前まではC型という呼称がなく、非A非B型肝炎といっていましたね。しかし私のALT(GPT)、AST(GOT)、γ- GTP値などは高かった。ウイルスを除去した途端、数値が下がり、さらに酒がうまくなった。これ本当の話ですが、困ったものですね。

 話がそれましたが私の前立腺がん、自分の意思を第1に担当医などと相談しながら、今後の方針を進めたいと思っています。

姪がブログで私を見つけて連絡を、50余年ぶりの再会に感動

 5日から3泊4日で、妻と姫路・京都へ行ってきました。実は5日からベトナム・ハノイ旅行を計画し、途中2泊3日でハロン湾クルーズにも参加する予定でたいへん楽しみにしていたのです。ところが当の私が手術を受けることが決まり1週間ほど入院しなければならなくなりました。「もし外国へ行って手術を受けると300万円はかかるからやめた方がいい」と医師からたしなめられ、急きょキャンセルして国内旅行に変更しました。

 尾籠な話で恐縮ですが、私は10数年前から尿の出が悪くなっていました。ホームドクターから紹介された泌尿器科医も、当然のように前立腺肥大を疑っていたが投薬では一向に改善しない。ついそのまま私も病院に行かなくなっていた。
 さらに症状が進行してきたので昨年、別のクリニックに行きました。そこでも投薬の効果が低く、X線撮影で尿道狭窄の箇所と前立腺の中で尿道が屈曲している所が確認され、尿閉になる恐れがあるということが分かりました。加齢による症状だが手術で改善できるということで私も納得したのです。
 こんな話はここで終了にします。

 さて旅行の初めに姫路を選んだのは、姪(姉の娘)と50余年ぶりに会うことになったからです。私の実家は姫路市(当時は飾磨郡)で建設業をやっていました。県知事登録で、県から直接公共工事を受注するさして大きくもない業者でしたが、業界では何十年かの歴史がありました。創立者の祖父は町会議員を4期務め、田舎のことでもあり誰もが知っていました。
 私が大学生のとき姉が養子を迎え、その婿が祖父のもとで仕事を学び始めた。姉夫婦のために家も新築した、私はてっきり義兄(婿)が後を継ぐものだと思っていました。ところがある日、祖父が上京して執拗に、私に学校をやめて実家へ帰るように説得したのです。結果、帰るには帰ったのですが、やはり自分の居場所があまり心地よくない。中途半端なのです。姉と義兄は自分らが後を継ぐと思っているようだ。祖父の態度も煮え切らない。祖父と祖母の意向が対立していたようです。

 私は実家を出ることにしました。しかし行方をくらましたわけではありませんから、その2、3年後だったと思いますが祖父の葬儀に私は帰っています。だがそのあと姉夫婦の代になると、全くこちらから連絡をとることはなくなりました。
 事情があったのでしょう、4人きょうだいのうち私と姉は祖父母の子として戸籍に記載されている。実母とは戸籍上は姉弟になっているのです。遺産分割は、厳密に戸籍の通りに取り運ぶものです。祖父が死亡したとき、遺産は2分の1を祖父の妻である祖母、私と姉と母の3人は6分の1ずつを受け取るはずですが、私には全く連絡がなかった。おそらく私を「行方知れず」として住所地を管轄する家庭裁判所に申し立て、掲示板や官報に公告を行って処理したものか。あるいは遺産放棄の手続きを不法に行ったものか。私も年が若かったし、金のことで騒ぐのもみっともないと思っていたので放置した。

 ところが今回、姪と会い話を聞いて驚いた。私が家を出たとき彼女は5、6歳だったと思うから、わずか7、8年間のことでしょう。姪が高校進学する前に実家が没落してしまった。それはあまりに悲惨、住んでいる家まで出ざるを得なくなり赤貧洗う生活だったらしい。
 問わず語りに聞くと、まるで小説でしか知らない世界だった。夜露をしのぐところもなく、母子3人で教会(姉はキリスト教で洗礼を受けていた)の2階においてもらった時期もあったという。高校進学をあきらめかけたとき、匿名を条件に費用を出してくれる人が現れた話等々。思わず緩んだ涙腺を、かろうじてこらえたものです。

 入り婿(姪の父、私の義兄)は家を出て行方をくらまし、また家に帰るなどを繰り返していたらしい。彼の弟も呼び寄せて仕事をしていたと思うが、弟はどうしたのだろう。もちろんそれでは商売ができるはずはない。金がなくなった時には、姪の学校の費用まで持ち出すまでになっていた。その後、正式に離婚したが、現在は父の住所も知らないらしい。
 異性問題かバクチかは知らないが、あまりに悲惨な話でした。現金、預貯金、証券類。石材運搬船(石船と言った。港湾工事の石材を運ぶ船〉、2件の家(実家と義兄らが住んでいた家)と不動産、持ち山もあったはずです。私も姪と会った日、浴びるほどビールを飲みながら聞いた話なので、どこまで正確かわからないが、およそこんな話だったと思う。M(=姪)ちゃん、もし大きい間違いがあったらメールをください。訂正します。

 実は今回の面会が実現したのは、姪がこのブログを目にして連絡をくれたからです。私は当初、ブログのコメントを受け付けていました。しかし書き込まれる内容に煩わしくなり、途中からやめてしまった。私のブログに気づいた姪は、昔までさかのぼってコメントを書き込んだ。それをたまたま私が目にしたというわけです。一種の偶然ですね。

 姪がとてもいい子(と言っても現在50代半ばですが)に育っていたのが救いでした。現在、母親も認知症になりつつあるようです、私の姉です。来年、もう1度行って、会わなければいけないかと思っています。姪は現在は幸せな家庭を持っているようなので何よりと思う。姪には妹がいます。私が家を出たときはせいぜい1、2歳? ほとんど記憶にないのですが、次に行ったら会わなければと思っています。
 姪は下戸で娘は高校生、飲むのは私と妻だけです。駅近辺で飲んでいたが、4人の最後の締めくくりは宿泊したホテル日航姫路の15階、「夜間飛行」というバーラウンジです。日航ホテルだからこんな名前を付けたのでしょうか。ここで飲んで終えるのが、宿泊したときの定番になってしまいました。飲まない2人には迷惑でもあったでしょうか。

 今日はこんな話で時間をつぶしてしまいました。次回は京都での話をお付き合いください。

姫路2
妻は姫路城にハマっています。これは西の丸の化粧櫓、腰元と
カルタを楽しむ千姫の人形でしょうか

姫路4
西の丸御殿に続く百間廊下

H28 9 5 めぐみたちと2
ホテル日航姫路15Fのバーラウンジ「夜間飛行」で、
私(右)の隣が妻、さらに姪とその娘

「武士道、日本刀、茶道、すべて韓国が起源」、 これがウリジナルだ!!

 「ウリジナル」という言葉をご存知だと思います。韓国人は日本に対しては極端な対抗意識を抱き、何でもかんでも「我々(韓国)が起源だ」と言い張る。「ウリ」は韓国語で「我々」ということで、これに「オリジナル」(初期の、起源の、という意味)を合成した造語がウリジナルです。

 ことに韓国人は事あるごとに、昔から日本で発祥した文化を取り上げ、「あれは韓国が起源だ、これも韓国が発祥だ、日本はすべて韓国の真似をしている」というが、実態は朝鮮が日本から教えてもらっているものばかりなのです。
 時事通信社のソウル特派員であった室谷克実氏(評論家)は、ベストセラー「悪韓論」の中で述べている。
 「歴史的事実を完全に無視しています。たとえば、第1回朝鮮通信使(1429年)の報告が載っている『朝鮮王朝実録』には、通信使たちが日本の優れた技術に驚嘆している様が、微細に描かれています」

 1429年は室町時代の真っただ中です。ことに朝鮮通信使が感嘆したのは、揚水水車の技術だったという。当時の日本では足踏みではなく、流れる水を動力源として、水を自動的にくみ上げるタイプの水車(揚水水車)を完成させていた。
 帰国後、通信使は作り方を説明し、国王には模型まで提出して揚水水車の導入を進言していますが、最後まで作ることができませんでした。日本の技術者から、懇切丁寧に教えてもらってもできなかったのです。

 驚いたことにそれから334年、江戸時代に日本にやって来た第11次朝鮮通信使は、またもや淀川にかかっている揚水水車に驚いて教えを乞うたという。300年全く進歩していなかったのだ。
 日韓併合で日本の技術を手取り足とり教えてもらうまで、朝鮮では水の漏れないタライや桶を作ることさえできなかったという。

 「日東壮遊歌」というのは、この第11次朝鮮通信使の一員として来日した金仁謙(キム・インギョム、当時57歳)の旅行記です。大坂での記述の一節。
 「(多くの船が)一斉に行き来する様は驚くばかりの壮観である。その昔、楼船で下る王濬が益州を称えた詩があるが、ここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう」
 「本願寺に向かう道の両側には人家が塀や軒をつらね、その賑わいのほどは我が国の鍾絽(チョンノ:ソウルの繁華街)の万倍も上である」
 「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという」(略)
彼らは驚いただけではない。美しい食器、柔らかい布団を、「これはいい」とばかりに宿から盗んでいったのです。

 イギリス人旅行家イザベラ・バードが1894年(明治27年)に釜山に上陸して見た近代的産業は、すべて日本人の手によるものだった。
 「銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行なわれている。居留地が清潔なのも日本的であれば、朝鮮人には未知の産業、たとえば機械による精米、捕鯨、酒蔵、フカヒレやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った」(「朝鮮紀行」英国婦人の見た李朝末期、イザベラ・バード著)

 明治時代に入ってもこの状態だったのです。すべて日本から教えてもらわなければ何もできなかった。
 刀をみても朝鮮古来のものは、日本の鍛造(たんぞう)とは違って鋳造(ちゅうぞう)でした。鋳型(いがた)に熔かした鉄を流し込む、いわゆる鋳物であり、鍛えて造る日本刀と違い、もろくて切れない。すぐ折れるせいか小刀しか作らなかった。今テレビドラマで長刀を携えているのは、日本刀を真似ているのです。

 また日本の空手を真似て作ったテコンドーを、空手がテコンドーを真似た、と逆宣伝している。剣道も柔道も韓国で始まったという。さらに今や呉服も、茶道も韓国が起源だ、と主張。食文化でも、すし、刺身、そば、しょうゆまで韓国が起源だというのです。
 しかし韓国(朝鮮)発祥だというもので、リーダーシップをとっているものが何かあるかね。これはいったいどういうことでしょうか。
刀を取り上げても童子切安綱、正宗、妖刀村正などいろいろありますが、一振りでも韓国人が作ったものがありますか。

 最後にこの話も聞いていただきたい。
 世界で初めて飛行機で空を飛んだのは、ライト兄弟ではなく、それより300年前の鄭平九だという。李朝後期の申景浚の詩文集「旅庵全書」に、秀吉の朝鮮出兵の際、日本軍に城を取り囲まれた鄭が、「飛車」と呼ばれる飛行機に人々を乗せて城から脱出し、12km先まで逃げたと書かれていることが根拠だというらしい。

 明治時代になっても、水が漏る桶しか作れなかった朝鮮が、そのはるか以前に飛行エンジンを作ったというから、恥知らずの発想には恐れ入りますね。その気になれば、ノーベル賞なんか総なめでしょう。韓国人でノーベル賞というと、これまで金を積んで金正日(北朝鮮)との会談を実現し平和賞を手にした金大中の1回だけでした。それほど優れた民族なら、化学賞、物理学賞分野でも、遠慮せずにどんどん進め、総なめにしたらいい。

 しかも韓国では、「キリストは実は韓国人だった」と主張している。ここまでくると、何でも勝手に言え、というしかないね。しかしキリストが「韓国」人はないでしょう。韓国が建国されたのは1948年、当時いるとすれば「朝鮮」人ですよ。檀君朝鮮か、箕子朝鮮か、そのあたりになるはずだ。

 ところでこれらのウリジナルは、サイトを見るといくらでも出てきますよ。ためしにYAHOOで「韓国起源説の一覧」を検索してみてください。まあ~、次々出てくること驚嘆しますよ。

朝鮮通信使は大規模な窃盗団、「世界遺産」に協力など論外だ

 かつて朝鮮王朝が日本に送った外交使節団「朝鮮通信使」の足跡をしのぶとして、昨年、日韓の有志がソウルを出発して東京都庁前まで、約3週間をかけて自転車の旅をしました。これには日韓自転車愛好家50人が参加したという。当時、一般紙などでも報道されたのでご存知だと思います。
 各メディアが、「江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った外交使節団」「両国の友好や協力を促進し新たな韓日関係を模索するため」、などと並べる美辞麗句を目や耳にすると、ちょっと待ってくれと複雑な気持ちになる。そういえばNHKでも、どうやら事実とかなり違う放送が行われたようですね。

 朝鮮通信使というのは、朝鮮が日本へ派遣した外交使節団です。朝日新聞などは「江戸時代に朝鮮王朝が日本に送った」としていますがそれは間違い。室町時代から始まり、豊臣秀吉の時代、江戸時代を合わせると17回に及ぶ。
 室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼だった。秀吉の時代は、一応は日本統一の祝賀だが、朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめることも目的だったという。
 江戸時代に入ると正使・副使・書状官に輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊、旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係など500人ほどに膨らみ、対馬藩からの案内、護衛などを加えると2000人にも及んだらしい。

 今回の自転車の旅は「何かやってるな」程度の関心しかなかったのですが、「当時の通信使の思いを胸に」(趣意)などという的外れな言葉を目にし、「朝鮮通信使を日韓で世界記憶遺産に登録する」などの話を知るに及ぶと、黙っておれなくてひとこと書いてみました。
 世界遺産というと、昨年もその登録で日韓が協力しようと話し合い、まず百済の遺産登録を日本は賛成してすんなり登録にこぎつけた。ところが長崎の軍艦島の番になると、「日本は朝鮮徴用工に強制労働させた」という項目を入れさせた。言うまでもないことですが、これは全くのでっち上げで、日本の外務省が「してやられた」ということです。

 朝鮮通信使というのはいわば「国家公務員」だった。しかも日本に派遣する以上、朝鮮として恥ずかしくない振る舞いをさせなければいけない。しかし実態は、大規模な窃盗団だったことをご存知ですか。当時の悪辣さは文書になって今に残っていますが、信じられますか。
 途中、宿へ泊れば漆塗りの食器を、「こんな光ったきれいなものは見たことがない」と荷物の中へしまい込み、町へ出ては民家の庭に押し入り、鶏を盗もうとして家人とけんかをする。その様子を描いた絵が現在に残っているのです。

 そんな韓国と、「当時の通信使の思いを胸に」「その足跡をたどりながら」、力を合わせてどうするのですか。それを協力して、世界遺産に登録するのですか。もしやるなら、そこに「朝鮮通信使と名乗ってはいたが、ほうぼうで窃盗を繰り返して日本に迷惑をかけた」と但し書きをつけさせたらどうか。
 今韓国では捏造の「従軍慰安婦」を登録しようとしている。歴史を偽って我が国を誹謗する、こんな暴挙には国を挙げて反対しなければいけないでしょう。通信使がどうこう言っている時ではない。

朝鮮通信使、鶏を盗む - コピー
京都大学所蔵の「朝鮮人来聘記」。鶏を盗んで町人と
喧嘩する朝鮮通信使の姿を描いている

杉良太郎さんの慈善活動は桁違い、投じた私財は数十億円!!

 俳優で歌手の杉良太郎さんを、ほとんどの方はご存知だと思います。私は映画やドラマで拝見したことがありますし、慈善活動に熱心な人だということも知っていました。
 少し前でしたか、「夕刊フジ」に東日本大震災直後の杉さんへのインタビューが改めて紹介されていました。「偽善とか売名とか言われることもあると思いますが…」と聞かれたときの、その返事に痺れましたね。
 インターネットで「杉良太郎 偽善」と入力して検索すると、杉さんの慈善活動を称えるサイトをいくらでも見ることができます。

 「Spotlight」「斜め上からこんにちは」、その他を読み進むうちに、個人でできる範囲を大きく超えた慈善活動には本当に恐れ入りました。これらのサイトの内容を引用させてもらいながら、その活躍ぶりを拙い文章で辿ってみたい。
 「慈善」を辞書で引くと、「情けや哀れみをかけること。特に、恵まれない人々や被害にあった人々に経済的な援助をすること」とありますが、援助をするというより、ご自分の生活自体がそのシステムになりきっているのを感じます。

 「芸能人と慈善活動」と言えば、「お金があるからだろう」と思いがちですが、芸能人だけではなく実業家でも、お金があっても応じないない人がいかに多いか。(この点はアメリカなどよりかなり意識が低いようです)
 ともかく彼の場合は芸能界デビューする以前の、15歳当時からボランティアに取り組んできたというのです。幼少期から歌手を目指していた杉さんは、10代の下積み時代にはカレー屋に奉公。元旦を除く364日、17時間労働とカレーしか食べることができない3年間を過ごしました。そんな中でも時間を作っては、ボランティア活動に従事した。

 すでに活動歴は56年という大ベテランなのです。芸能人として売れてきても、独身時代は慎ましくアパート生活をして寄付をしてきた。売れたからといって贅沢な生活を送らず寄付をする、というのはなかなかできることではない。
 昔のように金がないときも、現在のように金が自由になるときも、ひたすら慈善活動を続ける杉良太郎さんは、その動機を「生まれ持った性格だから」と語っているという。

 その中で最も長く続けてきたのが、刑務所への慰問活動」だった。半世紀にわたるその功績により、2008年には芸能人初の緑綬褒章(慈善活動などで顕著な活動をした人に贈られる)を受賞、並びに法務大臣から特別矯正監を任命されました。慰問活動を通して、杉さんが見てきた刑務所内の様子や改善点などを、意見として政府に提出することもしばしばあるという。

 甚大な被害をもたらした東日本大震災では、支援の遅れていた宮城県雄勝町へ、支援物資を携えるとともに炊き出しに駆けつけた。当時、物資が東京では手に入りにくく、大阪まで手配に向かった。支援内容はおよそ次のようだったという。
 車両12台(20トントラック2台、タンクローリー車1台、冷蔵・冷凍車2台、車7台)に水2トン、男女下着類4千枚、歯みがきセット1万セット、入れ歯洗浄剤5百個、クレベリン業務用セット2千セット、だるまストーブ21台、石油ストーブ8台、灯油・ガソリンなど。さらに炊き出しでカレーライス5千食、豚汁5千食、野菜サラダ3千食などを提供している。とうてい個人で行う支援のレベルではありません。

 海外での活動も、ベトナムへの支援を20年以上に渡って続けています。中でも、孤児院で生活している子供らを、養子として81人も迎えていることを知って驚きました。いったいなぜ養子として迎えているのか? その原点は? きっかけになったエピソードがあったそうです。
 孤児院でチョコレートを上げたら、子供たちはそれを持ったまま食べないでいるので、「おいしいから食べなさい」というと、「(お菓子ではなく)お父さんやお母さんがほしい」といった。杉良太郎は耐えられなくて、外へ出て泣いた。しばらく泣いてから、「ボクが君たちの父親になる」と即座に4人を養子にしたという。

 歌手・俳優以外に、財団法人日本・ベトナム文化友好協会理事長。法務省特別矯正監。外務省日本ベトナム特別大使。ベトナム社会主義共和国ベトナム日本特別大使、ハワイ州ホノルル市名誉市長、シンガポール日本文化協会名誉会長、麻薬追放協会会長などの肩書を持っている。芸術の分野で活躍したとして、紫綬褒章も受賞。養神館合気道5段である。

 大震災の直後、メディアが復興支援に奔走する杉さんへインタビューして、「偽善とか売名とか言われることもあると思いますが…」と聞いたとき、次のように答えた。
 「偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」
 
3月11日には福島市で開催された追悼復興記念式典に出席し、被災した高校生らが作詞した追悼詩を涙ながらに朗読、「つらいかもしれないけど、乗り越えるしかない」と励ました。

 慈善活動に私財を投げ打つことは、誰にでもできることではありません。寄付をしたくてもできない、そんな人に対する杉さんからのメッセージがありました。最後にそれを紹介しておきたい。

 「福祉をやるには確かに時間とお金がかかる。特にお金がないと見栄えのいい福祉はできません。でも、お金がない人は時間を寄付すればいい。お金も時間もない人は、福祉に対する理解を示し、実際に活動をしている人に拍手を送るだけで十分。それでもう立派な福祉家なんです。福祉ってそういうもんです」
 痺れましたね。

 このブログを書くにあたっては、「Spotlight」「斜め上からこんにちは」そのほか多くのサイトを引用、参考にし、写真も転載させていただきましたのでお礼とお断りを述べさせていただきます。

杉良太郎 2
大阪刑務所関西矯正展のテープカットにやってきた杉さん

1杉良太郎 復興支援 
東日本大震災の復興支援に全力で。右は夫人で美人歌手の伍代夏子さん
プロフィール

村 岡 長 治

Author:村 岡 長 治
出自:兵庫県姫路市
現在:埼玉県富士見市
仕事:特定社会保険労務士、行政書士

筑波大学付属駒場高等学校卒業後、早稲田大学理工学部に学ぶが、家業を継ぐため学業途上で帰郷。
現在、川越・ふじみ野・富士見方面で、社会保険労務士・行政書士業をやっています。

「村岡労務行政事務所」のホームページもご覧ください。

両士業の支部内で、勉強会などを持てるといいと思っています。信頼できる同志との連携を深めたい。

お客様とは互いに信頼でき、長続きする関係を築いて行きたい。

趣味は酒、旅行、絵画・音楽・書の鑑賞など。子供たちも独立して、いまは夫婦2人です。

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