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韓国が望んだ日韓併合、「合邦を要求する声明書」を読めば歴然

 (前回のつづき)
 この頃すでに、米欧諸国も朝鮮に見切りをつけていた。1905年、セオドア・ルーズベルト米大統領は、「朝鮮半島は日本に任せる」と日本に伝えてきたのです。
 その言葉どおり、李氏朝鮮に置いた公使館・領事館をことごとく引き上げ、「お前らは自分自身で国を統治できない。今後は日本にすがって生きよ」と言い渡したという。

 さらに日本に対しても、「白人に未開人を導く神聖な使命があるように、黄色い日本人にも未開の黄色人を助ける黄色い重荷があるんだ」(WiLL7月号、高山正之氏の文章から引用)と言いだした。アメリカのわが身勝手な言い分にはあきれるほかはない。
 ところが伊藤博文氏はこんな朝鮮を抱えるのは危険と判断し、1905年から5年間、朝鮮半島に様々な投資をして、自立できる道筋をつけてきた。未開国に道路を造り、鉄道を敷くなどインフラ整備をし、学校を立て、ハングルを与えた。併合や植民地にするのではなく、朝鮮が独自で生きる道を考えていたのです。

 その伊藤氏が、「朝鮮を植民地にする」と勘違いをした朝鮮人・安重根によって、ハルビン駅頭で射殺されるという事件があった。真犯人はロシアの特務機関員で、安はそれを隠すために仕立てられたという説があり、私はそれが正しいと思っています。しかし安が認めていることでもあり、今はそれに言及しません。
 伊藤の死後39日目のことでした。韓国最大政党「一進会」は韓国皇帝・高宗にあて「韓日合邦を要求する声明書」を上奏した。

 「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアに飲み込まれ肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」

 当時、李完用は朝鮮人100万人の署名を集め、日本に対し、日韓併合を懇願してきたのでした。李完用は、李氏朝鮮の末期から大韓帝国の初めにかけての政治家。日本が日清戦争に勝利して朝鮮を独立させてからは、大韓帝国首相も務めた。
 韓国が日韓併合を願ってきたことを、日本は米英に話したが彼らはもちろん賛成した。過去のいきさつを考えても、反対する理由がなかった。

 こういう問題は国内で100%賛成ということはない。韓国内のごく一部に反対を唱える者がいたが、大勢(たいせい)は日韓合邦を願っていた。
 いつか麻生太郎副総理も、「朴(ぱく)だ金(きむ)だと言っていた者が、日本名を名乗って、日本人として生活できるんだからみんな喜んだ」(あくまで趣旨)と言って、議員の中にも一部反発する者がいたが、事実はその通りなのです。職場でもそれまで中国人やロシア人にいじめられていたのが、併合によって「一等国民」として、胸を張り始めた。

 しかし「事大主義国家(民族)」の悲しさ。日本が戦争に負けた途端、今度はアメリカに付こうとした。進駐軍から拳銃や小銃を不法に入手し、当時武器を没収されていた日本の警察署に押し込んで暴れまわったり、デパートに押し入って物品を強奪したり、やりたい放題でした。「オレたちは朝鮮進駐軍だ」というのが彼らの看板でした。
 在日韓国・朝鮮人は、「日本に強制的に連れてこられた」というがこれもウソ。その証拠に、半島に帰ろうとすればいつでも帰れる戦後でも、帰ろうとしなかったのです。日本での生活がよっぽど美味しかったのでしょうね。方々にコリア・タウンを作って根を張って、現在に至っているというわけです。

 こんな話を書いていると、頭に血が上って体調が悪くなる。
 しかし福沢諭吉が、「隣国だからと言って特別扱いはよくない。悪友と親しく交わる者も悪名をまぬかれない。自分は東アジアの悪友を謝絶する」と中韓との接し方を述べていたが、日本は伊藤博文や福沢の目指すところをもっと見つめるべきだった。ルーズベルト大統領にとんだババを引かされたというわけです。
 中途半端ですがこれで失礼します。ご了承ください。(おわり)

「悪友を謝絶」、福沢諭吉は「脱亜論」で中国・朝鮮を敬遠した

 脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、明治時代の日本において、「後進世界のアジア(亜細亜)を脱し、ヨーロッパ(欧州、漢字表記は欧羅巴)列強の一員となる」ことを目的としたスローガンでした。
 脱亜という言葉を読むとすぐ胸に浮かぶのは、福沢諭吉翁の書いた脱亜論です。福沢は天保5年に大阪・堂島浜で下級藩士の子として生を受けた、明治時代の傑出せる蘭学者、著述家、教育家でした。

 もともと福沢は朝鮮を支援していました。訪日した金玉均やその同志の朴泳孝らと親交を深め、朝鮮問題に強い関心を抱いていた。
 “日本の軍備は日本一国のためにあるのではなく、西洋諸国の侵略から東洋を保護するためにある”と考えた福沢は、清の影響力を排除するためにも日本が朝鮮の近代化改革を指導する必要があると考えた。日本国内で最も強硬な対清主戦論者でもあったらしい。

 記憶があんまり定かではありませんが昔、本でこんな話を読んだことがあります。福沢は朝鮮人学生を自宅に住まわせて、その面倒を見ていていたことがあった。ところがその学生は福沢の財布から平気で現金を盗んでいた。何かい叱ってもその気質は改まらない。
 ほかでも恩をあだで返されることが続いた福沢は、ついに朝鮮民族に見切りをつけるまでになった。こんな経験が「脱亜論」の伏線になったのではなかったでしょうか。

 脱亜論は、明治18年3月16日に「時事新報」に掲載された無署名の社説です。時事新報とは福沢諭吉によって創刊された日刊紙です。昭和8年に石河幹明編「続福澤全集」』(澤は沢の旧字体)第2巻(岩波書店)に収録されたため、以来福沢諭吉が執筆したと一般的に理解されるようになったという。
 脱亜論から一節を引用してみます。(現代語訳のものです)

 「わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習慣を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのである。だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである」

 また、次のようにも述べている。
 「そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別扱いするに及ばず、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである」
 福沢氏はすでに、中国(当時は清王朝)と朝鮮を敬遠すべし、との考えを鮮明にしていた。(次回につづく)

私のC型肝炎克服の顛末、治療薬の急速な開発に驚嘆

 今日は私がC型肝炎を克服した顛末を書いてみたいと思います。興味がない方も多いと思いますので、その場合はどうぞスルーしてください。

 およそ30年前に、私は東京・板橋区から埼玉・富士見市へ引っ越してきました。その数年後、何か体の不調を感じたのだと思います。近くのS内科医院へ行って受診したとき、医師から「念のため肝機能検査をしよう」と勧められました。
 検査の結果は非A非B型肝炎に罹患しているというのです。これがのちにC型肝炎と呼ばれるのでしょうが、その時はまだ「C型」という呼称はなかったようです。
感染した原因は定かではありませんが、小学生当時の予防注射が原因ではないかと言われた。学校で大勢の生徒を整列させ、看護婦がアルコールを含んだ脱脂綿で腕の注射をする箇所を次々拭き、そこへ校医が注射をしていく。もちろん注射器は使いまわし。この時感染した可能性が大だという。

 私はアルコール飲料が好きです。ビール、日本酒、焼酎、ウイスキーとなんでも飲みますが、ビールなら500ミリリットル缶を3つ、日本酒なら3合といったところが適量でしょうか。だが、まずこの量で足りることがない、というのが正直なところでした。(寄る年波で、最近は弱くなりました)
 もちろん肝機能の数値は高いのです。AST(GOT)、ALT(GPT)は100前後、γ-GPTは100数十でした。医師も妻も「お酒をやめたほうがいい」というのです。
 時々血液検査をするのですが相変わらず数値が高い。ある時、徹底禁酒をして肝機能の数値を下げてみようと決意し、2ヵ月、1滴も飲まずに臨みました。ところが数値はAST、ALTともに80~90台、γ-GPTは100を超えていた。せっかくの努力が水泡に帰した。

 次にS医師はインターフェロン治療を勧めました。
 ところが当時の治療では、入院しなければならないし、治癒しない例が多い。しかも副作用が尋常ではない、さらに費用が莫大にかかるのです。当初、保険は適用されなかった。S医師は「このままだとやがて肝硬変になって、最後は肝がんになって死に至る」というのです。事実、肝がんの65%はC型肝炎が原因だ、と聞いたことがあります。
 妻は自営業でしたので、私が死んでも食うには困らないだろう。それを考えると肩も軽く感じられた。

 S医師に「余命はどれぐらいでしょう」と聞くと、「 5、6年ということはないと思うけど…」。その言葉もにわかに信じる気にはなれなかった。ただ、私の中で「ショック」は全く感じられなかったのです。
 ですから友人にも深刻な話などせず、相変わらず酒を楽しんでいたつもりです。「天命に従う」などという大げさなものではありません。俎上(そじょう)の鯉というか、俗な言葉で言うとジタバタだけはしたくなかった。

 この病気は、ホームドクター(というと聞こえがいいが町医者です)では対処できないことがあります。例えばCTやMRの撮影、etc. 。S医師の指示で時々、N大板橋病院へ通っていました。そこの担当医に、「ここまで来るのは遠いでしょう。川越にも三井病院といういい病院がありますよ」と言われた。
 帰ってさっそくS医師に三井病院への紹介状を書いてほしいと言うと、「俺はその病院知らないよ」と。「 C型肝炎っだということ、投与している薬を書いてくれたらそれでいい」と、無理やり書いてもらい病院へ行った。それまで治療法もなく、肝機能改善に効果がある(?)という錠剤を服用するだけでした。C型肝炎ウイルスに効くわけではありません。当時、この医師が処方していたのはU錠。やがて私は「どうせこんなの効かないんだから、T製薬のNにしてくれないか」と、今考えると生意気なことを言っておりました。

 ところが三井病院の担当医R先生からあるとき、「 C型ウイルスに効く薬が開発された。治療期間は24週(6ヵ月)。薬を飲むだけで、副作用もほとんどないそうですよ。しかも助成金が出る可能性がある。インターフェロン・フリーの薬です」という話。さっそく埼玉県A保健所を通して申請、助成金が認められました。
 24週間、錠剤を飲むだけで副作用らしいものは全くない。むしろ「これで効くのか?」と思うほどでした。

 結果、ウイルスは消滅。ただ担当医の話で、一時消えてもまた復活する例もあるから1年ほどの追跡調査が必要、と。この7月、約1年ぶりに採血して診察を受けましたが、「もうウイルスが出ることもないでしょう」という話でした。
 C型肝炎の治療薬は日進月歩、私の治療が終わったころにはすでに12週での治療薬も出ていました。今になるとホームドクターのS先生も、「インターフェロンやらなくてよかったね。先見の明があったのかな」と笑っていました。

 現在も相変わらず「休肝日」などなしで飲んでいます。時々検査する肝機能数値は驚く変化です。7月5日に三井病院で採血した結果を書いてみます。
 AST=24(基準値 8~38)
 ALT=13(同 4~44)
 γ-GPT=35(同 10~63)

 肝機能に最も影響を受ける検査項目と数値を書き出してみました。基準値の中にあれば正常ということです。決してアルコール肝炎ではなかった。誉められたことではないが、検査前日も普通に飲んでいるのですよ。しかし最近は飲酒量が極端に減ってきた。こうして歳とともに飲めなくなるのでしょうか。
 三井病院のR医師は日本肝臓学会認定の肝臓専門医だったと思います。いい医師に巡り合う、薬がよく効く。病と向き合うにはこれが大事なのでしょうね。
 冗長な話にお付き合いいただき、感謝します。

何ヵ月もかかる高齢者免許証更新、違反内容によっては臨時認知機能検査も

 6月28日、やっと免許証の更新ができました。75歳超の高齢者免許証更新はともかく大変です。
 前回も書きましたが、公安委員会から更新手続きのハガキが届いたのが1月下旬。直ちに近くのSモータースクールに連絡したのですが、初めに受ける認知機能検査は4月7日の前までは満員。この検査をクリアしても6月24日まで高齢者講習を受けられなかったのです。
 Sは埼玉県では大手の教習所ということですが、これほど待たされるのはそれだけ高齢者が多いということでしょう。半年近くも免許更新で振り回されていると、精神的に疲れてしまいますね。6月24日に高齢者講習を終え28日、やっと最寄りの警察署で免許証を手にしたというわけです。

 高齢者講習は2時間余。初めの30分は安全運転のビデオ講習で、陥りやすい危険運転について注意を促された。
 運転実技講習は教官1人に受講者3人が1組になって行う。進路変更や右左折時の方向指示器を出すタイミング、一時停止標識でラインの手前できっちり停止することなど、運転の基礎を改めて強調された。
 S字カーブやクランクなどは50数年前に教習所で学んだだけだったので、フレッシュな感覚で運転できました。

 続いて目の測定。視野測定結果は両目視野角度が170度。年齢別にみると30歳代の視野角度が最も広くて175度ですから、私の170度はかなり優秀でしょうか。70歳代では平均150度ということです。
 動体視力は0.6。これは30~59歳の平均だそうです。3年前には検査官が直接やってきて、「20代の測定値ですよ」と信じられない顔をしていた。前の測定法とは変わっていました。測定法が変わったからか、視力が衰えたからなのか、思っていたほどよくはなかったということです。
 夜間視力は0.6。これは20歳代~40歳代の平均で、70歳以上では0.2が平均値だそうです。夜間視力に関しては検査官が「目の手術をしましたか」。否定すると「何かスポーツをやっていましたか」と尋ねていました。学生時代に格闘技(日本拳法)をやっていたと話すと、なぜかうなずいていましたね。

 年を取ると免許更新は大変です。しかも免許証の有効期限が3年間に短縮されます。
 何より気を付けなければならないのは、「臨時認知機能検査」の対象になる違反があるということです。1、2の例を挙げると、指定場所一時不停止、赤信号の見落としなど、75歳以上の高齢運転者が認知機能低下により起こしやすいとされる18の違反行為をした場合、免許更新時とは関係なく臨時認知機能検査が行われ、認知機能が低下していると考えられる場合は「臨時高齢者講習」が実施される。
 認知機能検査の結果によっては専門医の診断が義務付けられ、診断結果では免許の停止をされる。この手の停止はまず回復する見込みがないので、実体は免許取り消しということだと聞かされました。

 東京のように公共交通機関が発達していれば、年を取ってから車を運転しなくても済むのです。しかし田舎では老齢になってから車が必要なことも多い。子供と同居していない家庭など、配偶者を病院へ連れて行ったり薬をもらってくるにも車がなければきわめて不便です。

 ただし法律で決まったことです。車自体が扱い方によっては人を死傷させる凶器になることを考えると、遵法運転を心がけるとともに、基準をクリアできなかった運転者は、免許証の返納も真剣に考えなければならないのでしょう。

腕を磨けばエビデンスはついてくる、明大キャンパスで指圧学会の発表会

 25日の日曜日、東京都杉並区永福にある明治大学和泉キャンパスに出かけました。趣旨は妻が主宰するNPO法人基本指圧研究会のメンバーOさんが、この日、指圧施術の体験を発表するというので妻と私で出かけたものです。
 発表したのは全員が日本指圧協会会員。有志が集って数年前に日本指圧学会というのを設立し、そのメンバーが集まっての披露でした。

 「指圧療法はその効果機序を説明することが困難であるため、現段階においてはあまりエビデンスが蓄積されていないのが現状である。また、日本においては資格制度の曖昧さから様々な手技療法が混在し、指圧療法が正しく認識されていない現状がある」(日本指圧学会のHP)

 そんな現状を打開すべく、日本指圧学会は「エビデンスの集積を通じて『あんま マッサージ 指圧師』の国家資格をもつ施術者を中心に、EBM(根拠に基づく医療)としての指圧療法を確立していく所存」らしい。
 目的は文書にするとそれらしく見えますが、実現しようと真剣に思うなら、指圧師だけが集まって一般的な指圧治療の施療結果を話して拍手し合っているだけでは叶わないでしょう。

 さまざまな分野がありますが、そこで医師が腕をこまぬいている問題に対し、お好きな言葉らしいが「エビデンス」(根拠、証拠)を、指圧師として示していかなければいけないのではないか。
 医師は自分らの知識と経験、西洋医学の現時点における常識を超える結果に対して、どうしても拒否反応を示してしまうと思います。例えば妻がかかわった例で私が耳にした2、3ですが、記憶をたどって簡単に書いてみます。

 彼女が日本二分脊椎症研究会で学会発表(2回)をしたのは、川越の治療所の前を尖足歩行(つま先立ちの歩行)で休み休み通学する中学生を目にしたことによります。足の状態を少しでも良くしてあげられたら、という思いから「お母さんに相談してごらん」と、ボランティアで治療をする意思を伝えたのです。
 指圧で硬直した脚の筋肉の改善を図るとともに、T学園大学のY教授を訪ねて、指圧に加え運動(体操)によって改善に寄与する方法も相談して実践しました。T教授は川越まで足を運んでくれたこともあります。

 二分脊椎症患者はほとんど排泄障害があります。自力で排便、排尿ができないのです。排便はごく軽症は浣腸ですみますが、それ以上は洗腸です。器具を使用して腸内洗浄を行います。排尿もまた器具を使っての導尿です。
 その中学生が定期的に診察を受けていた、都立B病院の脳神経外科医長のF先生が著しく改善している症状について、指圧の効果が大きいとして、母親を介して妻に学会発表を勧めてこられたのです。

 さらに二分脊椎症だけではなく、まだ公式な場で発表せず私のブログに書いただけですが、ほかのさまざまな症例にも対処してきました。
 例えば眼球振盪(がんきゅうしんとう)。頼まれて何人かの施療をしました。現時点で施療が終わった方もいます。再発がないとはいえません、それは本人にも伝えてあります。いま施術中の2人は激しく瞳が動く状況から脱して、現在、ほとんど目立たなくなっています。
 それでは眼球振盪を医師はどう見ているか。妻のところに来た患者さんの話では、「手術する方法もあるが、治るとは限らない」と言われたらしい。

 他の例を挙げてみます。つい先日、知り合いからの紹介という妊婦さんが来院しました。妊娠当初から逆子でどうしても改善しない。医師からは帝王切開をすると言われているが、「指圧で改善した」と聞いたのでお願いしたいということだったらしい。
 1回だけの施術でしたが、正常な位置に戻ったと妻は確信しているらしい。これまで何人もの逆子に対処してきましたが、ふつうならは1回、多くても2回で解決しているという。わずか1回の指圧で、帝王切開を回避して自然分娩ができるなら何よりでしょう。

 当日の発表会は、2人目のOさんの発表を聞いた時点で帰りました。聞いた2人の発表は患者さんの円背が治った、50肩が改善したなどの話だったと思いますが、背や脚が痛いなどは素人に揉んでもらっても多少は改善します。50肩は日時が経てば痛みは取れることが多い。
 ですから、こんな発表会で「エビデンス」「エビデンス」と騒がず、いろんな病気に対処できる「腕」を磨いていただきたいものです。厳しい意見かもわかりませんが、腕を磨けば可能性は無限に広がると思います。

 私は指圧の「圧し方」は知りませんが、「受ける方」としては40年の歴史があります。なにせ、昨年亡くなった指圧学校の実技講師・鈴木林三先生が、まだ開業する前に働いていた、有楽町の東京交通会館にあった浪越指圧センターに通って治療を受けていた身です。
 指圧師の皆さん! 期待していますのでどうぞ頑張ってください。


123明大和泉キャンパス
明大和泉キャンパスの桜も間もなく満開か?(25日)
プロフィール

村 岡 長 治

Author:村 岡 長 治
出自:兵庫県姫路市
現在:埼玉県富士見市
仕事:特定社会保険労務士、行政書士

筑波大学付属駒場高等学校卒業後、早稲田大学理工学部に学ぶが、家業を継ぐため学業途上で帰郷。
現在、川越・ふじみ野・富士見方面で、社会保険労務士・行政書士業をやっています。

「村岡労務行政事務所」のホームページもご覧ください。

両士業の支部内で、勉強会などを持てるといいと思っています。信頼できる同志との連携を深めたい。

お客様とは互いに信頼でき、長続きする関係を築いて行きたい。

趣味は酒、旅行、絵画・音楽・書の鑑賞など。子供たちも独立して、いまは夫婦2人です。

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