将棋界希望の星・藤井聡太四段、明日勝てば28連勝タイ記録だ!!

 夜空に明るい星が突如輝き、新しく誕生したように見えるのが新星なら、今や将棋界に「超新星」ともいうべき逸材が出現した。いうまでもなく藤井聡太四段です。
 1954年に、加藤一二三九段が14歳7ヵ月で達成したプロ棋士の最年少記録を62年ぶりに更新し、14歳2ヵ月でプロ棋士が誕生しました。これまで中学生でプロ入りできたのは、加藤九段のほかには日本将棋連盟会長の谷川浩司九段、羽生善治三冠、渡辺明竜王の4名だという。

 プロ棋士になるのは想像するよりはるかに過酷です。必ず棋士一人の推薦を得て師匠になってもらい、日本将棋連盟が運営する奨励会というプロ棋士養成機関に入会しなければならない。
 最初は六級からスタートしますが、この奨励会六級というのはけっこうすごい腕前。県代表やアマ五段とほぼ同じレベルだという。将棋のプロになるには小学生のうちにこの奨励会に入らないと、まずプロにはなれないらしい。

 将棋の世界は三段まで無給で、四段からプロ棋士となり報酬がもらえる。しかし年齢制限がある。26歳までに四段に昇段、つまりプロになれない場合は奨励会を退会しなければならない。三段リーグのなかで10代は3名しかいなかった。しかも2名は「19歳」である。そう考えると、藤井四段の凄みがよくわかる。
 彼はプロ入り以来、負け知らずの27連勝を記録している(6月17日現在)。彼の上には神谷広志八段の28連勝があるだけです。天才・羽生三冠も連勝は22で止まっている。

 そして何より驚くのが、神谷八段も羽生三冠も長い将棋人生の中での連勝。いっぽう藤井四段はプロ入り以来負け知らずということです。
 いうまでもありませんが、将棋や囲碁は野球やサッカーと比べるとはるかにマイナーな扱いでした。しかし藤井四段の活躍で人気が沸騰し始め、テレビ局などで競って彼の連勝を取り上げている。

 次戦は6月21日の王将戦一次予選。相手は澤田真吾六段です。この対局に勝てば、連勝記録歴代最多タイの28連勝です。
 実はこの2人、6月2日に大阪市の関西将棋会館で指された棋王戦予選6組決勝で対局している。澤田六段の先手で午前10時に始まったが、同じ局面が4回現れる「千日手」が61手で成立。両者合意の上で午後12時40分に指し直しに入り、先手・後手が入れ替わったため、藤井四段が8戦ぶりに先手番となった。スーパー中学生・藤井四段が澤田六段を155手で破っている。しかしこの経緯を見ても分かる通り、藤井四段の苦戦も考えられる手合わせです。

 しかしここまで来た以上、歴代タイの28連勝を達成してもらいたいものです。
 ところで藤井4段はなぜこんなに強いのか。彼が加藤九段に勝って連勝街道を走り始めたころ、私は知人にこんな話をした。
 
 マラソンを見ても最初からマラソンだけをやっている選手よりも、短距離から転向した選手の方が最後のスパートがすごい。日本のマラソン王国を築いた瀬古俊彦さんも、もともと短距離選手だったという。400mは40秒後半のスプリンターだった。そこからマラソンに転向したため、最後のスパートまで持ち込めば誰も瀬古さんには勝てなかったという。
 藤井聡太君はタイトル保持者を含むプロ棋士たちを抑え、2年連続「詰将棋回答選手権」で優勝しているという。彼の後半の強さは詰将棋の強さによるところが大きいのではないか。後半まで持ち越せば、詰め将棋の強さが光ってくる。以上は「へぼ将棋」の私が言うこと、大層なことではありませんからご放念ください。(将棋下手が指すのをへぼ将棋、碁下手が打つのをザル碁といいます)。

 ただ藤井四段の快進撃とともにフィーバーは過熱する一方です。今、将棋連盟は三浦弘行九段の冤罪事件(将棋ソフト不正使用疑惑)で信用が大きく損なわれてしまった。藤井四段は将棋界のイメージチェンジを成し遂げるには極めて大事な存在です。
 こんな話はさておいても、わずか14歳の中学生が大人のプロ棋士を相手に驚異の進撃を続けている。せめて、心から応援したいと思っているのは私だけではないでしょう。次は明日の王将戦一次予選。
 頑張れ藤井聡太クン!!

藤井聡太
天才棋士、藤井聡太四段。
明日勝てば連勝記録史上
タイ

取り立ててめでたくもない喜寿の宴? 初夏のXIV蓼科で命の洗濯

 10・11日の両日、一泊で蓼科高原(長野県)へ行ってきました。同行したのは妻と息子。私はこの6月、喜寿を迎えます。若い時からこんなに長生きをするつもりはありませんでしたので、少々戸惑っています。
 そんな中、「喜寿を迎えるんだからどこか行こうよ」という妻の誘いと、前立腺がんに罹患して治療方針も確立していない状態の私ですが、もし身罷(みまか)った場合の心構えを、倅にわからせておきたいという思いもありました。

 ただ私自身は、加齢による身体能力の低下は無視できませんが、気持ちは軒昂たるものがあります。倅に対して言いたかったことは、しっかりせよということと、もし私を亡くした後は、母親の気持をしっかり支えていけということだけです。
 取りあえず住まいはありますし、当分は食べてもいかれるでしょう。倅に対しては、腹構えを促しただけ。当然のことを説かれたわけですから、異を唱える余地はなかったようです。

 今回、宿泊したのはリゾートホテル「エクシブ蓼科」。実は同じ(株)リゾートトラストのホテルで近場のXIV「箱根離宮」か「湯河原離宮」を希望したのですが、日にちが切迫していたこともあり、土・日は無理でした。
 「XIV初島クラブ」(熱海)も候補に挙げましたが、予約をお願いした方の「あんまりお勧めできない」という話で取りやめ。倅の仕事の都合もあり、ほかの日程に決め難く、蓼科になったのです。

 残念なことに関東甲信も7日に梅雨入りしました。
 妻も私も、実は大変な「晴れ人間」でした。2人で旅行に行って雨に降られたためしがなかった。前日まで雨の予報でも、当日は晴れあがったのです。
 過去形で述べたのは、妻は6年前に脳出血で倒れいまだに後遺症に悩んでいます。私は今年1月に前立腺の手術をして体調もすぐれない。晴れ人間たちの神通力(?)も徐々に衰えてきたようです。

 天気予報では10日の蓼科高原は雨。この日、チェックインの時間より少し早くホテルに到着、北八ヶ岳ロープウエイの山麓駅までタクシーで20分ほどでした。山頂まで行ったのですが、小雨が降り出したのでさっさとホテルへ戻った。
 部屋はスイート。90㎡を超える広々とした間取りで、リビングにベッドルームと和室が接している。バスルームにはジェットバスとともにテレビも設置、バルコニーはサンルームです。倅は部屋の広さに驚いていた。

 部屋のテーブルには、ホテルの手配を依頼した方から手紙と、銘酒「菊姫」のボトルが置いてありました。私への喜寿を祝う言葉と、「このお酒はお部屋でも、夕食時にレストランへ持ち込んでも、召し上がっていただけます」と書き添えてあった。
 ホテルからは、「‥‥オーナー様よりお酒が届いております。レストランで召し上がっていただくこともできますので、‥‥お楽しみください。エクシブ蓼科スタッフ一同」と書いたカードがあった。「オーナー様」とは、ホテルの手配をしてもらったホテル会員権の所有者のことらしい。彼女にお礼のメールをして、恐縮しながら直ちに3人で乾杯。

 大風呂で疲れを癒した後は夕食。この日は会席料理を予約していた。
 体調がすぐれないといっても、ビールが実にうまい。ことにC型肝炎ウイルスを駆除してからは、前よりいちだんと美味いのです。困ったものだ。飯は私が食さない分を、倅が健啖家ぶりを発揮した。
 日本画家の横山大観翁は後半の50年ほとんど米飯を摂らず、食事は酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。たまに食べる時も1粒2粒と米粒を数えるほど。しかし90歳で天寿を全うする2年ぐらい前までは、毎日1升酒を飲んでいたらしい。
 比べるのは恐れ多いが、臨終の近くまで「うまい酒」を飲めるのは何ともうらやましいではありませんか。あやかりたいものです。
 
 今年は正月に有馬温泉へ行ったあと、日大板橋病院で手術をしたので、しばらくはどこへも出かけられなかった。高校時代の恩師の米寿の祝賀会にも行けなかったのが心残りでした。今回は倅を「諭す」という心算だったが、自分が「癒された」感じでした。

 翌日は朝から「梅雨(つゆ)の晴れ間」の超快晴。ホテルの敷地内は歩くにはあまりに広すぎます。しかしその一隅の林の中を、蝉時雨(せみしぐれ)を浴びながら散策しました。まだ蝉の季節には早いと思ってホテルの職員に聞くと、春蝉(はるぜみ)といって、松林に生息し晩春や初夏に成虫になる蝉だという。
 蓼科高原には野生のシカも棲息している。しかしウサギはいないらしい、キツネに食われてしまうからだとか。

 わずか1泊の旅行でしたが、帰ってきて疲れ果てたというのが実感でした。2泊にした方が、あるいは楽だったのか。体力が落ちているのですね。これからは出かける前、少しは身体を鍛えて? おかなければと感じた旅でした。

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北八ヶ岳ロープウエイ、上の写真は山麓駅

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妻とせがれを同行してXIV蓼科へ

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部屋には銘酒「菊姫」が待っていた

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翌朝、いつもながらビールが美味い。困ったものだ

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春蝉の鳴き声を浴びながらホテルの庭を散策

蓼科1-16野生のシカ (2)
野生のシカの姿も見えた

「延命治療」に対する勘違い、病人に苦痛と負担を強いているのです!

 (前回のつづき)
 第1次ベビーブームの年代の方たちが今や70歳を迎えます。さらにこの20余年のちに第2次ベビーブームの余波がやってくるのです。

 内閣府は昨年5月20日、2016年版「高齢社会白書」を発表した。
 高齢者を65歳以上と仮定すると、1950年時点では12.1人の生産年齢人口で1人の高齢者を支えていた。これが2015年時点では2.3人で1人の高齢者を、さらに2060年の予想人口比率では1.3人で1人を支えなければならなくなるのです。
 高齢者が長生きするのは、おめでたいことだと思わなければならない。しかしこの現実を見るとき、やはり「延命治療」は考えなければならないでしょう。

 看護する家族にも勘違いがあるのですね。患っている本人は意識がないにもかかわらず、周囲がただ薬漬けにしても長生きをさせようとする。脳死状態の人に対してまで、心臓を動かすことだけを考えている。
 そして「できることはすべてしたから、(病人が死んでも)思い残すことはない」と自己満足している人を何人も知っている。


 病人は意思も表明できず、長らく苦しんで生かされてきたのです。どうして本人の気持ちを考えてあげようとしないのでしょう。
 こういう家族に限って、周囲が「延命治療は考えなおしては…」などと注意する、と途端に機嫌を損ねるから難しい。

 しかしフランスでは、食事を自分で咀嚼(そしゃく)・嚥下(えんげ)できなくなれば人生の週末と考えるらしい。鼻から管を入れたり、胃瘻(いろう=お腹に穴をあけ、そこからチューブで水分・栄養を補給する)によって栄養を与えるのがいかに不自然か、日本人も考えなければいけない。死にゆく人間に、苦痛と負担を強いているのに気が付かなければいけないのですよ。

 イギリスではサッチャーさんが首相のとき、医療改革の一端として、「60歳以上の透析患者は健康保険を打ち切る」と宣言し実行しました。生きたい人は自分で費用を払えばいい、というわけです。日本なら大問題になって、政権は転覆しますよ。結果、イギリスでは膨大な透析患者が死亡しましたが、毎年数兆円の国費が救われた。財政再建に大きな貢献となったのです。
 認知症が進んで、誤嚥に悩み、痩せていく高齢者の延命胃瘻などは、ハナから一顧だに行なわれていない。「ゆりかごから墓場まで」を標榜し、福祉国家の見本であったイギリスにしてこうなのですよ。

 やはり筆頭福祉国家ともいうべきスエーデンが、社会福祉から全面撤退することを考えているそうです。理由は国が福祉で崩壊するからだという。
 日本は社会福祉に40兆円かけているのですよ。治癒の見込みがなく、ただ死期を延ばすだけの延命治療に、国家の命運をかけるなど考えなおしてはいかがでしょう。(おわり)

ガン・認知症の増加は高齢化が主原因、第1次ベビーブームが今や70歳に

 すべての人間は死ぬ。しかし医学の発達で寿命は徐々に延びています。端的に言いますと、がんや認知症が増加していますが、これは人類の高齢化がもたらす副作用のひとつといえます。
 国立がん研究センターの「がん登録・統計」によると、がんの死亡数と罹患数は、人口の高齢化を主な要因として、ともに増加し続けているという。急速に高齢化が進むにつれて、今や日本人の2人に1人ががんになる、といわれる時代を迎えました。

 欧米では、だいたい毎年5%ずつがんによる死亡数が減少しているらしい。それに比べ日本では増加が止まらない。1995年の時点では日本もアメリカも死亡率は同程度でしたが、それ以降、差はどんどん開いています。
 「他の先進国と比較して、日本では高齢化のスピードがものすごく速い。それが、がん死が増えている一番大きな要因だと言えるでしょう。日本のがん死亡者数は、団塊の世代が80代後半になる2030~2035年くらいまでは、増加し続けると思います」(大阪大学大学院医学系研究科社会環境医学講座教授・祖父江友孝氏)

 それでは認知症はどうでしょう。これは週刊新潮(4.13)から引用してみます。
「認知症患者を数多く抱える、石川県立高松病院院長の北村立氏は語る。
『ある大学の調査によると85歳の約50%、90歳では80%の人が認知症、もしくはその予備軍だといわれています。つまり〈認知症になるのは御免です〉といっても長生きしたら誰でも認知症になるんです』
 要するに、長寿と認知症はセット商品。長生きしても認知症知らずなど、虫のいい相談なのだ」

 2015年1月、厚生労働省は「認知症施策推進総合戦略 ~ 認知症高齢者等にやさしい地域づくりに向けて ~(新オレンジプラン)」を発表しました。この戦略の中では、認知症を患う人の数が2025年には700万人を超えるとの推計値が発表されています。これは、65歳以上の高齢者のうち、5人に1人が認知症になる計算です。
 認知症高齢者の数は2012年の時点で全国に約462万人と推計されており、約10年余で1.5倍にも増える見通しです。

 1947(昭和22)年から1949(昭和24)年の第1次ベビーブーム期に生まれた約810万人を指して「団塊の世代」と言います。1960年代には大量の労働力を供給して日本産業の発展に寄与し、70年代以降は大量の結婚、出産によって住宅、家電、自動車などの分野で大きな需要を生み出した。いろんな分野で、大きな影響を与えた年代が70歳を迎えるのです。
 さらにその20余年のちに第2次ベビーブームがありました。(つづく)

急速に開発が進むC型肝炎の新薬、私もウイルス駆除をしました

 私のホームドクター(かかりつけ医)までは、自宅から徒歩5分ぐらいです。この医院にかかり始めて30年になるでしょうか。20数年前、血液検査の結果を見た医師は、私に「非A非B型肝炎がある」と伝えました。それがのちにC型肝炎と名付けられたものです。

 C型肝炎罹患の原因は、多くが小学生時代の集団予防接種などによるらしい。注射器、注射針の使いまわしで次々感染したのだろうというのです。そのほかにも、暴力団の構成員が多く感染しているという。これは刺青(いれずみ)の針を使いまわすため、また麻薬の針からの感染もあるという。
 どういう経緯か知りませんが、暴力団の間でC型肝炎に「片仔廣(へんしこう)が効く」といううわさが広まった。もちろん根拠などありませんが、漢方薬局でいっせいに売り切れてしまったことがありました。

 C型肝炎にかかった人はやがて肝硬変になり、肝がんになって命を終える。それがホームドクターの説明でした。
 「先生、余命はどれぐらいだと思いますか?」
 いちおう先生と呼ぶのは礼儀だと思っています。
 「5年ということはないかと思うが…」
 返事の様子から、医師もあんまりよくわかっていないんだな、というのが感触でした。せいぜい1年ぐらいの誤差で寿命を知ることができるなら、整理しておかなければならない件もあるのだが…。

 そのうちインターフェロン治療が話題に上るようになり、私も勧められた。50歳半ばだったでしょうか。しかし調べると、これは抗がん剤治療と同じぐらい身体への負担が大きいというし、治療費も何百万円も必要だという。当初は健康保険が適用されていなかったはずだから仕方がないのでしょう。
 しかし私の知り得た範囲では、C型肝炎ウイルスのキャリアで、肝炎 → 肝硬変 → 肝がん と進行して死んだ人はいません。しかも死後詳しく検査をして、C型肝炎に罹患していたと分った人も多い。
 さらにインターフェロン治療をしても、すべてが治癒するわけではなかった。もちろん私は治療を拒否した。

 当時、半年に1回ほど日大板橋病院へ通っていた。そこの医師の紹介で、私は住まいに近い川越の病院へ替わりました。ある日その病院で、「副作用もごく少ない、錠剤による治療法が開発された。費用に対する助成金も出る可能性がある。やってみませんか」と勧められたのです。
 期間は26週(約6ヵ月)、朝夕錠剤を服用した。副作用もほとんどなく、無事ウイルスを駆除できました。助成金の審査が保健所で行われたが、6ヵ月で2百数十万円の薬価が、わずか月1万円ですみました。3年ほど前だったでしょうか。
 ところが私の治療が終わるころには、12週でウイルスを駆除する新薬が出来したと新聞で読んだ。その何ヵ月か後には、さらに期間を短縮した薬が出た。新薬が開発される速度は本当に驚くばかりです。
プロフィール

村 岡 長 治

Author:村 岡 長 治
出自:兵庫県姫路市
現在:埼玉県富士見市
仕事:特定社会保険労務士、行政書士

筑波大学付属駒場高等学校卒業後、早稲田大学理工学部に学ぶが、家業を継ぐため学業途上で帰郷。
現在、川越・ふじみ野・富士見方面で、社会保険労務士・行政書士業をやっています。

「村岡労務行政事務所」のホームページもご覧ください。

両士業の支部内で、勉強会などを持てるといいと思っています。信頼できる同志との連携を深めたい。

お客様とは互いに信頼でき、長続きする関係を築いて行きたい。

趣味は酒、旅行、絵画・音楽・書の鑑賞など。子供たちも独立して、いまは夫婦2人です。

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